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2012年9月28日 (金)

眼の旅へ

しばらくご無沙汰しているうちに秋めいて、ここ東京にもひんやりと、山の上(上野台地)からの六甲おろしのような(いや、阪神は弱いので)、比叡おろしのような風を感じて(笑)、ちょっとばかり、武者震い…。近況を再開。

 

 ここ5年はいわゆるワーカーズコープ(仕事おこしの協同組合)の仕事で89月は炎天下での仕事のため体重がごっそり減る季節。自主事業としては谷中霊園でのお墓掃除で境界線を巧妙につたうドクダミ君とにらめっこ。また某郊外の霊園では2tダンプに乗ってストックヤードのゴミ捨て場にいくと、スズメバチが運転席のフロントガラスめがけてバチバチ体当たりしてきたりする。あるいは山谷の日雇いの人たちの現場監督というエラそうな肩書での仕事にしては、協同組合の理念で一緒に、炎天下の草刈りや清掃や側溝のどぶのふたを上げ、大汗冷や汗をかくこと多し、で一日が終わる、そんな季節。

 

 …今年は打って変わり(だいたい数年ごとにガラッと違うことをやっている)自身の頭の整理に没頭し、時折、私の事務所、明の窓とシェアしているイラストレーター茶ノ間さんの入れてくれるチャチャや、今年で20回目を迎える谷中・根津・千駄木(谷根千)やその周辺エリアから100か所以上参加する「芸工展」の参加グループや個人が、明の窓のあるこの場所に、出来上がったばかりのガイドマップを取りにやってくるのを、気が向くとお相手させていただいている、とても刺激になる。

 

(私の相方は実行委員なのだが、私は”協力者”なので、時折、背を向けたままで無愛想にて失礼。102021日は私の企画「みゆ字を綴る3」も明の窓でやってます、以上PR)。

 

さてさて、

国会図書館に行って資料を漁るのがこのところの日課になりつつある。自身のアイバンク登録を機に、「眼の旅」について、書きたくなってきたからだ。

Shouzaki_niwanogakubuchi


最初の書き出しはもう決まっていて、ここは前回もちょっと書いたことだが、一軒家を借り切って5人で8年ほど住んでいた時のこと。

一軒家にシェアして長崎盲学校OB連中と住んでいた時分に、出がけによく玄関で、「坂部さん、目ん玉貸してくださーい」とウッチャン(内田勝久君)が声をかけてきた。「上と下の服の色は似合ってますか?」と背広やワイシャツのコーディネイトのことを聞いてくる。まあ、鏡の代わり、だ。で、

「うーん、ばっちりだよ」と言うが早いか「ホントーですかぁ?」と返してくる。

 

彼は私という人物の心をえぐるように(ドキッとさせるように)ホントーですかを連発していく、私も応戦するが、こうして長い間に彼との間に出来あがっていくものは、、鍛えられ、研ぎ澄まされていくものとしての、私の奥底に映り込む文字通りの鏡なのである。そうして恐るべきことに(?!)彼が直観的にそこを感じとっているかもしれないということなのである。私の目に映るもの(に期待する)より、そこからの応答を待っているのかもしれないということ。

 

そこに、今度はトランプゲームが絡んでくる(予定)。自身の手の内を見せないのがトランプなら、自分だけが自分のカード(のうち一枚の内容)を知らないというトランプゲームの紹介をする。他の人はこちらの手の内を全部知っている。もちろん、各自一枚ずつは知らない(私はこれを点字図書館でのゲームの集まりで草場さんという方に教えて頂いた)。

そうすると、これは相手の顔色をみて自身の戦略を立てずには居られなくなる。目ん玉貸してくださーい、のウッチャンの気持ちが何となく判ることになる。

そうしてもう一つ言えること。トランプカードの歴史を見ればやはりゲームがエスカレートし、よりギャンブル性を強めていったであろうことは想像に難くない。これは(後に生まれたであろう)タロットカードのように、絵札そのものに象徴的な意味があるというのとは対照的に、絵札は半分を「境」に上下に双頭の絵を描くことで、言うなれば手の内を相手に知らせることもなくなったとも言える(タロットでは逆さになった絵には逆さなりの意味が付加される。一方、トランプは双頭でないと手の内でひっくり返さなければ見づらく、かといって直していると、手の内に絵札があることもバレテしまうだろう)。

 

さあ、こうなれば世のグローバル化同様、手の内だけの私的空間をつくることで、ゲームにも拍車がかかり、場合によっては金貨が舞い踊ったのかもしれない。

が、これはタマサカ、テーブルの上と手の内との関係でしか、ない。

「目ん玉貸してくださーい」「ホントーですかぁ?」におけるドキッ、ドキドキ感に遠く及ばないのではないか。

少なくとも、試合に負けた悔しさよりも(おまけに)試合に勝った嬉しさよりも、齢を重ねるごとに研ぎ澄まされる自身および自身のカードを交感する楽しみのほうが勝る日がやってくること請け合いである。試合に勝った負けたに勝るのである。すごいことではないだろうか。

「そういうけどね、半値八掛けの手の内をお得意さんには見せちゃーいけないんだよ」と私もメーカー時代よく言われたものである。建築材関係だから、代理店も工務店もあり、そのたびごとに、手の内の見せ方(隠し方)が変わる。たしかに致し方ないのかな。。でも、今の世の中、一方では情報の漏えいが騒がれ、データが何万件と流出する事件が後を絶たないなかで、こうした手の内に固執せず、自身が率先して手の内を相手に委ねてしまうことで、相手を介した自分が見えてくるという大きな意味での複層的トレードこそ、これからの商売というものじゃないかねえ、どう思う?「ホントーですかア?」

 

というように、経済社会にまで喧嘩を売るつもりはないのだが(笑)、それでも、続いてはワーカーズコープ(仕事おこし、自分たちで出資もするけれど、汗もかく協同組合。法制化が全国レベルで盛り上がっている)の話に加勢を頼むことはしたい。そうとうワーカーズコープには教えられることが多かった。素晴らしく面白い仕組みである(いずれ面白みをちゃんと書くことにする)

冒頭に書いた仕事の体験もワーカーズコープという仕組みが成し得たのだとすれば凄い事だし、他の仕組みでも出来ることであれば、まだ、模索は続けることになる。私がこの仕組みでの諸先輩から教わったこと、ならびに、いまのギクッというウッチャンとの掛け合い漫才、じゃなかった、交感。この辺を交えた時、私の終生のテーマの一つであるところの「境界線に舟を出せ」(境界線に佇むことで見えてくること。境界線が今の世の中なにかと騒がしいけれど、本来境界線に佇めば佇むほど静かなものだと思う。研ぎ澄まされた静けさが勝ってほしいですね)にも通底するものが見えてくるように感じていている。

そこのところで、援用したいのが、仏教における戒律であったのだ(国会図書館にはそのことで通った)。戒律というと禁止事項ばかりがイメージされるが、もともとは自発的な僧伽の集団の維持と関わりがあることは、私も最近になって知ったことではあるのだけれど、当面は最初に日本に正式な戒律をもたらしたと言える鑑真のことが気になって仕方がない。もちろん、失明から眼の旅を導くことも出来るわけだが、失明を乗り越えて、という部分が突出して語られてきた歴史と、鑑真らが伝えたかったものとが、なぜ、別々なのか。

私は先の心の奥底の鏡を持ち出す絶好の好機であったと、みた。

もちろん、先学の先生方のようには鑑真のあれこれを調べる力量はない、(お金もない(笑))、よって、これは鑑真に映り込んだ自分を語り尽くすしかないということになる。アイバンク登録は済んだ。風は冒頭からほどよく吹いている。さあ、出港だ。

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